日本的功利主義の「呪縛」を超えてー「企業評価」の新展開 2007/03/12
今日、地球環境問題の解決策を求め、あるいはCSRを追求することは、相変わらず神の存在証明に励む神学者と似たようなカベに行き当たる。ACCの「今そこにある危機」に声をからし、「人間圏」より発生するCO2の総量が地球全体の火山活動よりもたらされるCO2総量の4倍になるという事実を指摘しても、それ自体が直ちに地球温暖化抑制のグローバルな行動につながるわけではない。また度重なる不祥事に、企業経営者がTVカメラの前で何度頭を下げ、法令順守を誓ってみせてもCSRが捗るわけではない。ゼネコン業界が「脱談合」を宣言して見せても、誰も信用してくれないのである。それはロケットを幾ら打ち上げても、背中に羽の生えた金髪の大男など何処にも発見できなかったことと似ている。この世界に存在し得ないものを、この世に求めることはむなしい。
ではどこに求めたら良いかといえば、「神」は「世界」ではなく、「世界観」のなかにあるのだ。
科学技術が著しく発達し、世界が濃密な技術連環にスッポリと捕らえられて以来、いかなる人文科学、社会科学も技術の発達に直接依拠しないでは、語ることは難しい。われわれは、このような考え方を「応用哲学」といっている。たとえば現代の倫理学は認知科学と関連なくしては成立し得ない。認知科学といっても、現在ものをいうのはマッピング技術である。それによれば、前頭葉にスピリチュアル・モジュールなる部分が確かに存在する。「脳・神経系」が人間存在のコアをなすと考えれば、ヒトは本質的に「神」の存在認識を理性のなかに持っていると思われる。また「群生生物」として必須の本能ともいうべき、他者の感覚を己のものとする「共感」能力は、前頭葉眼窩野に認められる。
「信仰」(必ずしも厳密な意味での宗教に限らない)や「共感」などという「道徳感情」はアダム・スミスの指摘を待つまでもなく、ヒトの本性に由来するものであるといえる。
ところが日本においては、倫理道徳を認める考え方は、実社会にあっては必ずしも一般的ではない。「小児病」視されている。員数合わせや要領が幅をきかせている。コンプライアンスやリスクマネジメントといっても、総て「手抜き工事」であり、「構造強度不足」である。いまや世界政治の主要課題に躍り出た地球温暖化防止といえども、わが国の企業社会にあっては、「形だけですませろ」という悪魔のささやきが幅をきかせている。これを「日本版費用対効果比理論」という。「日本的功利主義」とは悪い冗談である。
いまだイエ亡き後の「イエ社会」、ムラ亡き後の「ムラ社会」、帝国亡き後の「帝国社会」が根っこを失なっていないのは、同じく「日本的功利主義」のたまものである。日本は昔「大日本帝国」と自称したのだ。これではグローバルな競争に遅れをとるのは当たり前である。
物事には構造と運動(孫子のいう「勢(せい)」)の二つの側面があり、倫理道徳は社会生活において運動力ないしダイナミズムを形作るものであるから、倫理道徳を軽んずれば、その社会や組織は失速する。再度強調するが、日本が国際社会のなかで、経済的ひいては政治的に競争力を失いつつある根本原因は、このようなところにある。その挽回の手法として環境対応を含むCSRを対象とする企業(事業体)評価手法として「格付け」(Rating)をとりあげ、社会技術としての研磨を試みたのがMITA-MODELである。
ただしMITA-MODELは本来第三者評価の手段としてうまれたものであるから、アプローチにはそれなりの手順と腕力が必要である。また政府からも内部統制を始めとして、資本、防災、防犯などについて企業評価の基準が示されつつあり、大手企業は「CSR購入」への傾斜を強め、なかには600項目以上の評価を義務付ける動きもでている。このような流れに対処するためには「日本的功利主義」では間に合わない。他から力を借りて第三者評価を受ける前に、CSRの標準的なツールによる自己評価から始め、絶えずCSRのPDCAを稼動させて、自分で会社と全社員の体質改善を図っていく、地道な努力がぜひとも必要といえる。
「環境CSR自己評価ツール」を推奨するゆえんである。