環境経営学会会長 三田和美
かつて数学を専門とするある男が、「数学は情緒だ!」と叫んで世間をおどろかせた。なにしろ世の中の常識からすれば、数学とは論理の金メダリストであって、情緒などという下世話なものとは、縁もゆかりもないものだったからである。 しかし、それはホグベンの「百万人の数学」の読者層レベルの話であって、偉大な科学的発見はすべて、ペスタロッチの云うアンシャウウング、応用哲学でいうところの智的純粋直感に拠っている。「智」的とは知・情・意のことである。 上記の数学者・岡潔は、これを発達心理学の側面から説明しているが、私は自己組織化のプロセスとして話をする。 1989年、リチャード・ドーキンスは「利己的な遺伝子」という著作をもって、劇的なデビューをはたした。その論法に従えば、人体などは「遺伝子の船」にすぎない。しかし現在の認識では、遺伝子はセル・オートマトンのスイッチであって、それゆえに従来ジャンクDNAという謎の存在であったDNAが、じつはOFF状態の遺伝子であると説明できる。情緒の担い手である発生期の脳は、その原初においてON−OFFの論理的プロセスから始動する。よって大脳は論理的に形成されたものであり、このことは大脳の「幼児体験」として埋め込まれ、「潜在論理」として機能する。いうなれば情緒は論理の別な呼び名である。 情緒と論理を載せた価値の秤(はかり)は平衡しており、あとは主観、いいかえれば「重み付け」の問題である。 ここでCSRをとりあげれば、それは歴史的過程として論理的である。 技術の巨大化と情報・交通手段の発達、経済のグローバル化、共産主義に対する欧米型民主主義の勝利、政治と文化のトランスナショナリズムの進展によって、アメリカとヨーロッパは其々民族国家をこえた新しいアイデンティティの確立を目指して運動している。その中で企業は規模相応の役割分担がもとめられている。それがCSRの歴史的成り立ちである。 この試みが成功すれば、あるいは地球規模の環境破壊と社会倫理の崩壊がもたらす致命的な結果から、人類を救出することができるかもしれない。 このような世界史の流れにあって、わが国は百年をこえる「大久保利通の誤謬」を是正し、「有志専制」、官僚独裁の仕組みを改革し、市民主権の社会を実現すべきであるのに、いたずらに「他人の基準によってみずからの行動方針を決定する」田舎役者の立ち回りの域から出ようとしないでいる。これを心から残念に思うのは情緒である。 このままではわが国は世界から取り残され、衰亡の一途をたどる以外にはない。いつかわが国のおくれた体制が、フセインのそれのように弾劾される日がやってくるにちがいない。 すでに有名な自動車会社は、司直の手によって、犯罪者の集まりであることが明白となった。同時にわが国産業の代表的グループとされていたものが、少なくとも経営理念において同罪であり、そのブランドが悪のシンボルとして社会的嘲笑罵倒の対象となったのは、自らが廻らした「道徳の壁」の結末であるからそれは当然として、同じ自動車産業、同じ日本経済全体にあたえた計り知れない損害を、同グループの首脳たちは、どこまで認識しているのだろうか。 このような事態に対し、わが国のすべての企業は自らの理念と企業TOPの認識を総点検し、説明責任とステークホルダーダイアログの多重的実行に着手すべきである。それが経営TOPの「道徳的確信」を得る道であり、CSR推進の根幹である。 このほど、環境経営学会は組織替えを行い、新たな人事のもとに格付機構を出発させた。それがどのような歴史認識と自覚の上で出発したかは、なお、詳らかではない。富士に似合う月見草になり得るのか、それともその実態は「せいたかあわだち草」であるのか、勉強の成果を希望をもって見守りたい。(2004/07/02)
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NPO法人環境経営学会 会長 三田和美
21世紀初頭のメガトレンドは「情報化+グローバリズム+経済決定論」である。流行と言っても良い。伝統芸能に仮託すると「功利主義の伝統とニヒリズム(金銭への渇望)」を巡る愛憎劇である。ヘゲモニーはもとよりアメリカ、特にアイゼンハワー元大統領が指摘したメジャーを含む「産軍複合体」にある。 その嵐のような潮流のなかからスキャンダルとCSR(企業の社会的責任)とが、コインの裏表の様に組み合わさって次々と浮上し、話題となっている。それは近江商人の伝統や渋沢栄一の事績等を参照するまでもなく、エンロン、ドイツテレコムのケースも三菱自動車、新日鉄、フジTV,JR西日本などの場合も、ともに時代の変遷、パラダイムの転換に対する「企業文化」の適合不全が露呈した結果なのである。 言わば価値観が180度回転していることに注意を払わず、陳腐化した「権威」を平等主義・自由主義・個人主義の流氷の中に押し通そうとした「傲慢と怠慢」がタイタニックさながらに難破したのである。事件の数と大きさにかかわらず、CSRの話としては氷山の一角である。 ただし人類史的にいうと潮流は既にKnowledge-based Economy(知識経済)の高みに達しており、「知」が主要な生産力となった経済のダイナミズムとその上部構造の特質については稿を改めざるをえないが、この上げ潮に乗って成功をおさめるための資質は跳躍する「知」の特性に応じたagility(俊敏さ)、身軽さにあるとだけ言っておこう。 時流は社会が作り、企業もまた歴史的所産である。TOPの保身のためのリスクマネジメントとコンプライアンスだけでは、このステージの波をのりきることはできない。連続回転する「知」へのブリッジングが突破口となる。その橋のひとつ,社会的「知」なかんずく社会的共通主観への架け橋がCSRである。 いまや地球は地殻大変動期にさしかかっているといわれる。少なくとも日本はそうである。こんな火山のかたまりのような島々に何十基もの原子力発電所が稼動している我国は、世界の国土面積の0.1%を占めるに過ぎないがマグニチュード6以上の地震は同じく21%を超える。浜岡原発を例にとれば、東海地震が発生した場合西からの風によって首都圏は全滅する可能性がある。 北大西洋諸国の急激な寒冷化をもたらすACC(地球温暖化による急激な気候変動),世界的な少子高齢化を引き起こしている人工化学物質、疫病の脅威、あいつぐ災害やテロのことを考えると、現在「環境と健康と安全」は国際社会全体の主要な関心事であり、社会的共通主観である。 レスター・ブラウン氏の言う水・食料・エネルギーの危機、生態系の崩壊、WHOが警告する精神異常の世界的拡散は、ともに人類社会崩壊の警笛を鳴らす。わが国においても青少年の13%がうつ病の危機にあるという調査結果がある。これらが表層的トレンドの下に流れる現実の深層海流である。 国家という装置の機能も、国民のリスクマネジメントの観点から再検討が迫られる。 人類社会の危機とそれに伴う再編成運動を目前にして、社会と技術の発達につれてかつてなく強大化した企業がCSRの名のもとに規模相応の責任の履行を求められるのは、「理」の当然であり、情報と公共への参画という意味で「利」にもかなう。 社会とは一面、住民の集団であり、CSRとして架橋する対象をステークホルダーごとに考えれば、コミュニティ、従業員、女性とマイノリティ、環境、人権、顧客、取引先、国家、経営者倫理、投資家があげられる。 CSRのきっかけとなったスキャンダルは「CSR推進室」などを完備し、対応が十分であるかのような装いを凝らした企業に於いても多発している。この事自体、仕組みではなくビヘイビアが問題であることを示す例証にほかならない。組織をあげて実行し結果をだすためにはCSRの理念とビジョンと戦略と評価方法が明らかでなければならず、そこに当学会の存在理由のひとつがある。加えて社外取締役の増強、第三者認証の制度化、格付け評価委員等に対する学会資格の付与、行政機構や中小企業ほかに対する格付けなどが当面の目標であろう。 すでに3回目を終えた「環境経営格付け」は社会の要求に対して鈍重な企業と俊敏な企業との格差をひろげているし、企業倫理はそれ自体生産力となって企業価値の増強に貢献しつつある。その先に”Knowledge”だけでない“Knowledge&Moral-based Economy”の新大陸があると想定するのは、楽観的に過ぎるであろうか。 (筆者は三田環境経営コンサルティング株式会社代表取締役)
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環境経営学会会長 三田和美
20世紀の最後の十年から世界は地殻大変動期に入った。昨年のスマトラ沖津波地震、今年のパキスタン北西部地震など応接に暇がないが、日本ではざっと挙げただけでも1993年の奥尻島、95年の阪神淡路、2004年の中越、05年の福岡県西方沖と、踵を接している。 地球表面積の0.2%を占めるわが国土で、世界の震度6以上の地震の4割が発生している。独特の美しさを誇る日本の自然景観は過去に幾度となくくりかえされた大地震の結果であり、火山列島の上に花開く日本文明は、まさに「地獄の上の花見」(一茶)といえよう。 災害は地震だけではない。アメリカのハリケーンや竜巻、ヨーロッパや中国の大洪水など、災害は群発している。歴史的に「災害そのものが、発生当時の社会環境に大きな影響も与えてもきている」(伊藤和明著 火山と噴火の日本史)という指摘は、今に始まったことではない。 「人妖」とは、性悪説の始祖と呼ばれる荀子の言葉であって、人間社会の混乱、人倫の乱れを指す。従来、「天変地異」より「人妖」の方が恐ろしいなどと使われてきた。ところがわが国では江戸時代以来「天変(地異)人妖」が政変を含む一連の現象として考えられるようになった。「蘭学事始」の著者杉田玄白は、日食、大水、飢饉に続く将軍の死去・交代を関連付けて述べているが、元神戸大学教授野口武彦氏は「天変から人妖が出現するのは、天災が人災を呼び込んだ瞬間である」(蜀山残雨)と当時の風潮を記述している。天明3年の浅間山の噴火は、その影響で冷害が広がり、飢饉、水害、米価高騰と「打ち壊し」、田沼重商主義政権崩壊へと連続したのである。じつは同様の連続性が「天保の大飢饉―嘉永のペリー来航―安政の大地震―慶応の大政奉還」あるいは「大正の飢饉と米よこせ運動―関東大震災―昭和の日中戦争と2.26事件―敗戦」に見られる。 「大地動乱の時代」(石橋克彦)の今日、快楽主義、拝金主義、刹那主義の「人妖」は日本中に充満しており、政治経済を含む破局の近さを思わせる。「責任」をコア概念にした倫理と新しい「公共」の構築をいそがねばなるまい。
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NPO法人環境経営学会会長 三田和美(哲学者)
環境経営学会設立当初、私はある小論で次のようなナゾナゾをしかけた。 「ノアはいつ方舟をつくったか?」 答えはもちろん「嵐の来るまえに」である。 「嵐はそよ風からはじまる」ともいうが、まだ船台も組みあがっていないというのに、このところの異常気象による風向きは、春一番を通り越してただならぬものを想わせる。 人類は、そして日本は、この嵐を乗り越えられるのか?「方舟」の建造は間に合うのか? 1997年、「地球温暖化京都会議」をきっかけに、私は英語圏の損保系IPCC専門家と意見交換する機会を持った。そのなかで「気候変動による災害の増加に伴う破壊された財の総量が、やがてその年に生産された財の総量を上回る年度が来る。すなわち人類は破産する。それはだいたい2060年ごろと想定される」という計算結果に接することができた。(最近になって数年の誤差はあるが同様の結果が翻訳・紹介されている) これはサステナビリティという問題が、ローマ・クラブのいう資源量の限界であるとか、リオから発信された先進国と途上国との調整であるとか、国連官僚の「次の世代に制約を及ぼさない」とかいう作文を超えて、人類の存続にかかわる差し迫った現実的課題であることを示している。文字通り人類の「グローバルな社会的文化的衰退」(J.diamond「文明崩壊」)が問題となっているのである。 これを人類史的リスクマネジメントの問題として考えれば、災害リスクマネジメントの「要因の競合理論」、複雑系の「砂山の理論」、応用哲学の「要因の蓄積と競合の理論」のいずれもが複数要因の交差点の探求を課題提起しているが、地殻大変動(石橋克彦「大地動乱の時代」)、映画にもなったACC、自然破壊、大気と土壌の汚染、食料・水資源の欠乏、石油枯渇、中国とインドの消費急増、テロ・スキャンダルの頻発、貧富の差の拡大、難民の急増、官僚の腐敗怠慢と支配層の経済至上主義などが容易ならぬ要因の競合的蓄積を示している。WHOの統計が示す世界的な精神異常の著しい増加(アメリカでは実に全人口の23%)と少子高齢化(従来多産であった途上国においてすら少子化が進んでいる)は、人類史的内部崩壊の図式である。 なかでも注目すべきは過去の「文明崩壊」に見られる、崩壊は人口の最頂点において急激に発生するという共通現象である。いまのところ地球人口のピークは2060年過ぎ、80億とか云われている人口予測と人類破産予想の時間グラフは不気味にクロスする。 おそらく人類は21世紀後半にむけて小崩壊を繰り返しつつきたるべき大崩壊に向かって、たとえ話のなかのレミングのように集団突進する可能性があるのではないだろうか。繰り返される経済のブームとバーストの過程で、知性を誇った人類が「公衆便所」(レーニン)にもできなかった黄金とドルをかかえて溺れ死ぬ運命にあるとするならば、たとえ一時でも「金で買えないものは無い」と麻薬的幻想におぼれるのも一つの方法かもしれない。 過去の「文明崩壊」の事例に共通して云えることは、危機にあたって当時の支配層が有効な手段を講じえず、快楽主義、拝金主義のなかで最後を迎えたという事実である。しかし人類とはいつでもどこでもそんな情けない存在にすぎなかった訳ではない。たしかに21世紀はサステナブル事案競合の世紀ではあるが、理念を確立し、戦略を立て、システムを設計し、文化と社会を維持するためのブレークスルー的発想の転換のなかで「方舟」を建造することは、いのちあるものとして当然であり、全体として一個の「善」であり、社会の要求に応える道であり、そして人類および日本の文化と社会には、まだまだその「善」、その「道」を突き進む「知」とエネルギーが残っている。 21世紀初頭において、企業の社会的責任が特別注目されるのは何のためか。 社会現象として第一に目に付くのはスキャンダルの多さである。アメリカの企業責任専門誌BUSINESS ETHICS誌は「スキャンダルとCSRはコインの両面である」と述べているが果たしてそうか。確かに企業をはじめとして中央官庁、自治体、警察、大学、病院など現行制度の腐敗堕落怠惰をあからさまに暴露する事例は後を絶たない。まさに文明末期に相当する現象がそこにある。しかしCSRをスキャンダル防止策と考え、コンプライアンスの掛け声をかけ、リスクマネジメントの損得を推し量るそろばん主体の取り組みでは、スキャンダルも法令違反も後を絶たない。むしろコンプライアンス委員会とかCSR手帳とか、形式を整えた企業さえ失敗が多い。経営TOPの意識の善悪なり「本心」なりの検証を先送りにしたCSRのISO化などは、CSR本体にとってはむしろ形骸化を促進するものになりはしないか。インテリ白人や定年退職者の失業対策としては、それなりの効果があることは否定しないけれども。 コンプライアンスを例にあげれば、参考になる事情としては保健衛生の分野での取り組みがある。この分野でもコンプライアンスと呼ばれる概念があり、それは患者が医師の指示に忠実にしたがうことを意味する。従来からある医療者主体の考え方である。ところがこれでは患者の十分な納得と理解が得られず投薬の危険な中断などがあるために、長期的な治療が必要な慢性疾患とか生活習慣病には対応できず、医療費の増大を招き、社会的に大きな負担となっている。そこでアドヒアランス(adherence)といって患者本人の理解と意思のもとに、病気は患者が直す、医療機関や公共機関、家族はそれを援助するという考え方が生まれ、アメリカを始めとして広く世界でおこなわれつつある。人権と健康との相補的関係付け(complement)の考え方である。法令への対応一つとってもコンプライアンスからアドヒアランスへという流れができつつあり、多様な流れが競合して新しいCSRを形成しようとしている。旧来の守りの姿勢、隠蔽姿勢のCSRでは守りにも失敗するのである。 それでは企業の社会的責任がこれほどまでに強く求められるのは、企業の犯した地球環境汚染や人権侵害など過去の罪悪に対し、現状復帰や損害賠償、不当利得の返還を要求されているからであろうか。 法令違反は犯罪であり、論外である。人権のバランスを考慮すれば、罪刑法定主義も所有権も絶対ではない。産業の発達が地球環境を侵害したことについては様々な事例とともに、1900年ごろを境にして産業の発達と同時に地球温暖化ガスが急増しているという状況証拠がある。しかし産業の発達は人類に多くの冨(実生活の便益に資する財とサービス)をもたらしては来なかったか?山本五十六(旧日本帝国海軍連合艦隊司令長官、対米開戦に反対した)はデトロイトに工場の煙突が林立するさまを見てアメリカの国力を痛感したのではなかったか?先進国と低開発国との生活レベルの差は工業化の差であったことはなかったか?産業人の精神が当時三等国といわれ知能年齢12歳といわれた日本を世界有数の豊な国にしたのではなかったか? 腐敗した官僚、道義に反した経営者は責められなければならない。産業のマイナス面は追及されなければならない。けれども産業の社会一般にもたらした恩恵、特に株式会社制度の効能は正当に評価されなければならない。生活が豊になったことと地球温暖化ガスの増加とは、同一増大曲線を描いているのである。 そのバランス感覚(のちに述べる格付けには不可欠の要素であるが)を前提として、なおも企業の社会的責任が特別強調されるのは何のためか。それは社会が崩壊に瀕しているからである。戦争や談合が毎日のニュースになっているからである。暴力がはびこり経済の大きな部分(世界経済の約10パーセントといわれる)がアングラ勢力に飲み込まれているからである。高利貸がテレビや駅前で目立つからである。マスコミが真実を伝えないからである。母親が子育てを忘れ、青年が仕事も勉強も結婚もできないからである。滅亡の危機を肌で感じているからである。 市民はなんとかしてこの崩れかけた社会を建て直し、次の世代に少しでも良い仕組みを残そうと懸命に努力している。卑近な例だが、私の住む町内会でも、警察も市役所も頼りにならないなかで犯罪を減らそう子供を守ろうと集団夜回りを続けているが平均年齢66歳、女性が過半数だ。これは、ささやかながら「善」の実践である。実践が数多くおこなわれている現われとしてNPOが増えているのである。その市民が、いいかえれば社会の基本的な構成単位であり、最終消費者であり世論の形成者である人々が、その頂点においては国家を凌駕するほどの人的組織力と物的装備力にめぐまれたまっとうな企業に対し、ともに世の中を良くするために協力し合おうとよびかけているのである。(例えば世界の国と企業グループをともに経済単位と考えれば、上位100単位を選ぶとすると、国家と企業はそれぞれ半数を占める)。 CSRとは単純に企業の「悪」の追及に終始することではない。多くは企業自身の自浄能力の範囲内の問題である。社会を崩壊から救うために最終的には一市民に還元される諸ステークホルダー(利害共有者)と企業とが、環境・健康・安全・人権・反腐敗・反暴力等々のための同盟を結ぼうということなのである。その会社自身がまぎれもなく一角を占める文化的社会を共同して守ろうということなのである。自分も一部を占めるものであるから、社会と文化をまもるために自らも「善」であろうとするのである。オープンな企業、公正な経営、透明性の高い企業文化とはそういうことなのである。だからCSRは人類のサステナビリティにとって、不可欠となるのである。 では現代経営にとってCSRとはどういう役割を果たすものなのか。単なる間接経費であるのか。経営者の自己満足のための「善行」に過ぎないのか。 いま、世の中の動きは早い。なぜならば世界が「技術連環」(今道友信)のなかにすっぽりと捕らえられ、しかもそれがイノベーションの連鎖反応をおこしているからである。それは「イノベーションの民主化」とか「ユーザー・イノベーション」とか呼ばれており、私は「生産と消費の一体化」(生産即消費・消費即生産=東洋医学の診断即治療・治療即診断とフラクタル)という。変幻極まりない市場を前提とした生産が市場調査やデータ分析を待っていては間に合わない状況がうまれているのである。 消費者の商品選択意思決定は、各人の価値観によっておこなわれるきわめて主観的な動作であり、ほとんど瞬間移動的であり、文脈を追うというよりも跳躍的でさえあるから、企業の競争力は消費者の主観の展開に対する即応能力(responsibility)の如何による。ここにおいて企業にとって競争力強化と社会的責任(Social Responsibility)の履行とは相似的軌跡を描くのである。違いは個別のニーズすなわち個々の主観に対応するか社会的共通主観に対応するかのみである。 商品を「知」の物質化とするならば、「知」は「消費者という名前の生産者」が担う。企業が競争力を強化するためには、市民・消費者のあいだに点在する「上質」なグラスルーツオーガニゼーションを囲い込まねば(enclose)ならない。囲い込むためには自らを警戒不要な存在として、解放(disclose)しなければならない。 経営者にとって利潤の確保、競争力強化は自己責任である。自己責任をまっとうするためには、社会的責任の履行が前提となる。さもなければ文化的社会という名前の市場にたいして「やらずぶったくり」をしかけることになる。そんなことはいつまでも通るわけがない。「自己責任感」のみでは日を追って高まるサステナビリティへの社会的に共通な危機感と企業の責任追求の声にはばまれて存在を正当とする理由を失い、市場から締め出される。 技術連関におけるイノベーションの加速的状況より判断すれば、カイゼン的革新は今やピークを過ぎ、今後の技術革新はブレークスルー型のものとなると想定される。そのなかで経営者は本物と偽者との見分けをつけなければならない。このところ容疑者という肩書きでなじみとなったかつての自民党と経団連の希望の星は、巧妙な手口の詐欺師として知られるようになったが、その方法は新しくもなんともない。1800年代にアメリカの大財閥の創業者が軒並みやった事で、だから19世紀にムーデーズとかスタンダード&プアーズなど資金償還能力の格付け機関があいついで設立されたわけで、云わば時代遅れだったのである。見分けがつかなかったのは政治家・経営者に善悪の判断能力がなかったからで、「早まった」という手続きミスの問題ではない。判断能力が欠けていたのは、あるいは浅薄な善悪二元論否定主義の流行にまどわされて、日ごろ倫理の基本である善悪の判断をないがしろにしてきたからである。倫理は人の生き方を指し示すコンパスであり、それが北と南を指すように倫理は善と悪、本物と偽者の違いを教えるのである。判断能力を養うにはCSRに「本心」(石田梅岩)から取り組み、まずはコミュニティの一員として汗を流してみることだ。感覚の養成が大事ということである。企業文化とは個々の善き努力と慣習の積み重ねと総合の上に開花する。 「社会の常識は会社の非常識、会社の常識は社会の非常識」では国内市場を失い、「日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識」では世界市場を喪失する。このような常識の懸隔を乗り越える有力な一手段として、グローバルに「格付け」が取り上げられている。 CSRは、企業がサステナブルな世界に向かうダイナミズムを発揮するための、一つのデザインである。その構造強度は倫理あるいは「善」の意識によって支えられる。「善」の意識の核心とは、人間の生命力を再生産するための自然と社会とのかかわり方である。「善」が見失われた世界においては、精神的にも肉体的にも人間の再生産が難しくなることはWHOの統計が示すとおりである(World Mental Disorder Rep.2000年)。基礎的な倫理が守られることによって機能する建築確認制度が優良な建築物のインセンティヴになるように、ふさわしい規模と内容を得れば、たとえば「格付け」という社会技術はCSRのエンジンとなりえる。「格付け」に必要とされる要素は?偽装を許さない効率的なエビデンス主義?コンプレメントな関係を深める対話主義?サステナブルな「本心」を確かめるためのTOPインタビュー?結果を社会化するためのわかりやすい表示?未来への展望とグローバルな競争力強化への貢献である。 これまで少なからぬ企業が「格付け」への対応によって自らがCSRに挑む企業であることを証明した。この挑戦のなかに日本経済の競争力強化の展望とグローバルなサステナビリティの可能性があると云えよう。巨視的には文明と社会の崩壊に立ち向かう人類のエランヴィタール(生命の躍動)の発現の一部なのだ。「方舟」はからくも間に合いそうな気配である。(2006/03/06)
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環境経営学会会長 三田和美
倫理とか道徳とか言うと、崖の上から身を投げて己が肉体を虎の餌食にするといった風な、非日常的特殊例を思い起こして、多少のテレや違和感を抱くひとが多いが、倫理とは決してそのような生活感情とかけ離れたものではない。 昭和30年代に至っても日本の大都会の片隅においては、部落とか貧民窟とか、文学的には「太陽の無い街」とか称される特殊な地域が数多く存在し、学生達と氷川下でセツルメント活動にいそしんだことは、なお鮮明な記憶がある。 そこでは毎朝残飯屋が売りにきて、ご馳走とは、たとえば流しにつまった白米は「洗い」であり、おこげは「虎の皮」と命名されて、子供達は喜んで食べた。残飯であるからなかに使い捨てた爪楊枝がまぎれこんでいることもあり、年に二、三人のどにささって死ぬ。それが情けなくて、母親は遺骸を抱きしめて泣き叫ぶのである。 その声、その姿を目の前にして、飽食の世代の社会貢献遊びとは別物の、なにか胸の奥底にめらめらと青い炎のようなものが燃え上がるのを感じないでいるならば、それは人間ではない。 このような、人間を人間たらしめている炎のようなもののことを、かのスコットランド人は「共感」とよび、ナザレびとは「愛」と名づけ、東洋では「善の意識?なり、武士は「惻隠の情」と称した。そしてたとえば、「共感」をとりあげたアダム・スミスは「道徳感情論」に続く「国富論」を表して経済学の考案者となり、イエスの後継者である中世カトリック教会は、二頭立ての鋤を開発して農業革命の発信者の名誉に輝いたのである。 想えば倫理は社会的動物としての人類発祥の時点からの本質的属性であった。飢餓の解決は実空間における存在と同義語であった。人類は誕生の地アフリカにいたときから、倫理と経済のコンプレメンタリーな二足歩行を続けてきたのである。今日パンデミック(大流行)にある経済決定論は飢餓・貧困に対する恐怖心を裏返した不安定な片足歩行にすぎない。 ISOや格付けなど規格化の強要を武器とするもう一つの「帝国」(アントニオ・ネグリ)の概念に対峙する多元的なマルティテゥードの存在規定が課題となっているとき、「二足歩行」する企業が新たな社会的共通主観の形成において知的文化的役割を果たす事を期待して止まない。
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特定非営利活動法人 環境経営学会会長 三田和美
ここ鎌倉では、富士が霞の後ろに退場すると、待ちかねていた花々が一斉に舞台中央に踊り出る。蝋梅のころはおとなしいが、梅、桃とすぎて桜の時節ともなれば、ドンドコドンと北野監督「座頭市」のフィナーレまがいの乱舞である。中締めは極楽寺のサルスベリであろうか。 ひるがえって栄華の巷を低く見わたせば、そこはCSRマツケンサンバの大流行である。不業績を景気のせいにして追い出されたゲーム好きの経営者もおれば、時流に乗じていくばくかをありつこうとするさもしいCSRフリーターも紛れ込んで、「地獄の上の花見」(一茶)が盛りだ。 CSRってこんなものなの? 「黒船」の本国では違うようだ。結果は「失われた10年」と「経済再活性化の10年」の差となって現れている。 歴史的には、工業経済、サービス経済と来て、いまや知識経済のはじめの終わりにさしかかっている。モノ(装置)が絶対の社会からマン・マシンシステムがものをいう時代を経て、人智がモノの束縛から解き放たれる時節を迎えたのである。 ゆえに知識資本主義の可能性は、これまでになくダイナミックである。その認識のあるなしが勝負を分けた。 今や「知」は主要な生産力となっている。この時代に生産力を高めるには、知識そのものをよく知らなければならない。(知識の知識とは哲学のことであるがー我田引水) 知識資本主義の際立った特性は敏捷さ(agility)である。対立物は鈍重、怠惰、陋習、馴れ合い、既得権擁護である。わが国の大勢はどちらの概念に属するのですか? 統一できない対立物もあるのですよ、ヘーゲルさん。 「知」は陳腐化が速い。なぜならば「知」の宿主が自分自身の「知」を乗り越えるといった自家中毒性陳腐化さえ起こりうるからである。「知」の宿主(host)とは人間のことである。この時代のビジネスモデルの基本型は「生産即消費、消費即生産」となる。「即」とは即時的相互浸透(reflexivity)のことである。スケールフリーのリゾーム型リンケージ構築が勝負どころだ。「秘すれば花」(世阿弥)、サプライズが優劣を決定する世界である。 「知」は跳躍する。わが国の法務官僚が自ら太平の夢から覚めたとしても、頭脳のなかまで法規制の網を張るのはムリだ。生命連環(生態系)から出発して異常発達した技術連環にゆきついた人類社会は、すべての乗客が自爆スイッチを携帯した旅客機と同じである。ゆえにこれからは社会の安全、人類の健康、地球環境を守る主役は人の心の学、倫理(moral philosophy as ethics)となる。「社会的共通資本」(宇沢弘文)ではなくソシアルキャピタルのコアとしての価値観、「社会的共通主観」が問題なのだ。隣接科学は美学、心理学、精神医学である。 日常的にサラ金のコマーシャルがテレビで流される国は異常である。ニヒリズムの源泉のひとつがここにある。 CSRとはこの相互浸透的世界にあって、かつてなく肥大化した資本力社会的影響力を持つにいたった企業が(特にグローバル企業が)、自然環境へのただ乗りと個々人に「自爆」の動機を与えかねない反社会的な企業行動及び文化を改め、広く「知」の賛同を得ることをつうじて他に勝る生産力を我が物とするプロセスなのである。 「天変地異人妖」という。大きな自然災害は政治的大変動をもたらす。幕末のペリー来航は首都圏直下型の安政大地震と共鳴し、明治維新をもたらした。いまや地球は「地殻大変動期」を迎えたといわれる。それでなくとも人類は産業の発達につれて自ら気候変動を引き起こしている。”The day after tomorrow”はどんなかたちをしているのか、せき止めることはできない流れの末をしるべき決断の時は今、五月である。
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環境経営学会会長/環境経営格付機構理事長 三田和美
思想とは、哲学に強固な土台を打ち固められた考えのことである。哲学とは、物事をラヂカルに、根本から把握する学のことである。 その対極にあるものは現象学である。現象学の典型は、今をときめく「安全学」である。 安全学の起因するところのものは、初歩的な実行意思決定の失敗である。よって、「失敗学」の別な表現といっても良い。 人間は失敗から学ぶことのほうが、成功から得るものよりも多い。失敗の分析は、その意味で有効である。 だからといって、それはHOW TO として現場のカイゼンには役立つが、思想とは別物である。 思想であるか無いかということは、それが思惟としてサステナブルであるかどうかに関係する。 人類が全体としておのれの「死」を直視しなければならなくなった現代にあって、このような「学」は、どこまで慰めたり得るであろうか。 CSRは現象学の一種である。杉田玄白の「天変人妖」なる考えに仮託すれば、企業行動が少なからぬ原因をもたらしている自然環境破壊が社会システムの破滅を呼び込む事態のなかで、ついに企業ひとつ一つの実行意思決定責任が厳しく追及される歴史的ステージにまでいたったのが、CSRのグローバルな流行という現象の意味するものである。企業は物質的利益追求を目的として設立された組織体であるから、当然その責任の追及も最終的には物質的になされる。 ゆきつくところは「不法行為責任」である。 最近、奇をてらうあまり、CSRには市民(CITIZEN)の社会的責任という意味もあるという論調をごく一部で聞くが、それは社会的インパクトにおける事業組織と自然人の非対称性という社会科学人文科学の基礎を知らない独特の主張であって、とるに足りない。問題の本質は企業という資本主義の基礎をなすものの、自然環境上社会上の歴史的存在適合性にいたる論議が内包されているところにある。 代替プランがいまだ確実に姿を認められていない現段階にあっては、今や資本主義経済の仕組みに関する、環境と倫理に有効なバリエーション発見の暇があたえられるか、暴力と統制のもとで大多数の市民が苦しむ時代を迎えるかの人類史的分岐点に到ったとさえいうことができる。 相変わらず法規制強化にのみ自己の存在価値をみいだそうとしている一部評論家にたいしては、その危険な綱渡りに警告を発せざるをえない。 CSRはあくまで現象学であり、企業の実行意思決定における失敗に対する責任追及の一プロセスである。それは決して「罪と罰」の終末のように、一つの「意匠」を与えるものではない。 CSRが思想的意味を持つとすれば、それは消費者が商品を選択する際にまず企業を選択する時代様相の中にあって、企業が人々の巨大な複合システムであり、内包された人間といえども、結局は個々の主観(すなわち価値観、正義感、美意識)によって動くがゆえに、主観の統一をはかるリーダーシップのあり方が問われており、それが経営戦略の根幹であり、企業文化というものなのだということに、CSR対応を通じて多くの経営TOPが気づく可能性にある。 CSRを、ただの作文コンクールにおわらせてはならない。 経営者に対し、浮ついた網羅性の論議ではなく、自らの存在意義を社会的に再確立する機会にしてもらいたいと、青白い犬の心をもって訴えるものである。 (参考:萩原朔太郎詩集)
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環境経営学会会長 環境経営格付機構理事長 三田和美
「秋晴れの昼日中、一匹のアリが真っ赤に色づいたリンゴの上で、ふと空を見上げて驚いた。なんと地球が墜落してくるではないか。 “助けてくれ!” そう叫んだとたんに、彼は万有引力を発見した。アリの名前がニュートンと云ったかどうかは、定かではない」 万有引力の法則は F=Gmm’/r2 と表される。すなわち引力の強さは質量(m)の積に比例し、距離(r)の自乗に反比例する。普通われわれが地球の引力のみを認識して、リンゴが地面に落ちるとのみ考えるのは、地球の質量がリンゴのそれと比べてあまりにも大きいからである。 物質・反物質間バランスのわずかな揺らぎによって生じた、この物質世界においては、質量が決定的にモノを云う。人間は毎日、地球に足をつけて生活しているし、そればかりでなく現に住んでいる国、働いている企業、かかわっている地域にべったりと依存している。肉体のみならず精神も、しっかりと引力圏に捕捉されているのである。 しかし情報化が進んだ社会モデルを考えると、情報に質量は無いから、質量に関係なくものごとを見、考えることができる。地球にリンゴが落ちてくるばかりではなくて、リンゴに地球が落ちてくるという発想も自然に生まれてくるのである。このような時代を先取りした考え方が、経営革新のカギとなる。 情報化社会と云われ始めて久しい。だが多くの人々は、その内包する“コペルニクス的回転”の驚異を見誤ってきた。たとえば日本を代表する自動車会社の社外取締役に靴屋のおじさんを任命することに、どこのCEOが成功しているであろうか。あるいは世界を舞台に活躍する電器メーカーの委員会設置会社委員に、夜な夜なベランダにでて望遠鏡をのぞき込み、ついには痴漢とまちがえられたメガネ屋さんを委嘱することなど、だれがなし得たであろうか。コペルニクスやガリレオ、更には情報化などという言葉だけは知っていながら、わが国経済界はその発想の根本において地球引力圏に捕捉されていること、かくのごときものがある。 サステナビリティ(人類社会の持続可能性)とは、優れて戦略的な課題である。その下にマネジメントを展開しようとすれば、コーポレートガバナンスひとつとってみても、単に監督機能強化のみを意味するものではなくなる。 むしろ企業にとっては生き残りを賭けた競争において、いかに他に先んじて発想の“回転”を獲得するか、どうやって既成概念の“引力圏”を脱出するかの手法の問題というべきであろう。
--------------------------------------------------------------------------------環境経営学会会長 三田和美
「正義が氾濫する社会は良い社会ではない。しかし正義が語られる社会は良い社会である」という。それでは、かくも盛大にCSR論議が氾濫する昨今の社会は、はたして良い社会なのか悪い社会なのか。 CSR(企業の社会的責任)が盛んに問題にされるのは、企業が社会的責任をはたしていないからである。さもなければ、これほど人口に膾炙するいわれはない。それでは、あたかもCSRに主役を譲ったかにみえる地球環境問題は、すでに解決済みであるのか。環境問題を取り上げることは、時代遅れになったのであろうか。 環境対策は部分的には、成功しているかに見える。隅田川がきれいになったとか、どこかでホタルがもどってきたとか、例示に暇がない。けれども、大きな流れを見れば、たとえば地球温暖化が進行し、その行く手は京都議定書の発効に成功したとしても、阻止が絶望しされていることも事実である。 地球温暖化が進めば東部アメリカと西ヨーロッパに属する地域が寒冷化すると言うパラドックスは、多システムの複合体である地球システムの複雑さを示す好例として、数年来「環境経営学」講座のハイライトのひとつとなってきた。心配なことにそれらの地域には「近代」文明の母国、残り少なくなった食料純輸出国の主要部分がふくまれているのである。グリーンランドの氷冠がしめす惨状を、たとえばNASAの航空写真でみれば、危機がいつ現実のものになっても不思議とは思われない。 加えて、1990年のパーフェクトストーム以来一段と猛威を振るう自然災害が一年間に破壊する「財」の総量は、人類が一年間に生産する「財」の総量をやがて上回るであろうことが、世界の損害保険業界の専門家によって計算されている。生産と破壊の逆転はおよそ2060年までに起こるといわれている。 私は、世界的な少子高齢化の進行も、人工化学物質の影響が大きいと考えている。 これらの事象だけを見ても地球環境問題が解決されているどころか、ますます深刻化している状況が見て取れる。地球環境の急激な悪化は産業革命以来のものであり、産業の発達がその主要な原因であることは、明らかである。なぜ産業がそのような否定的な役割を肯定的な役割の一方で担ったかといえば、それは本来内部化されるべき「不経済」を外部化してきたからである。 産業の主要な担い手である私企業は、その利潤獲得の手段として可能なかぎり自然環境にただ乗りしてきた。正当な対価を支払うことなく空気も水も土地も乱用してきた。環境は公のものであり、市民すべてが平等に利用する権利を持ち、守るべき義務を有するものであると考えるならば、諸企業が私益のために環境にたいして行ってきたことは、市民に対する略奪・窃盗行為以外の何者でもない。 環境問題の深刻化につれて、市民一人一人も従来なかった負担をしいられるようになってきた。ならば私的な利益のために、市民個人とは比較にならない規模で環境を略奪し窃取してきた企業が、相当する責任を負わなければならない。 環境にたいする略奪・窃盗は、もう、許されない。企業は応分の対価と賠償責任を負担しなければならない。 私企業といえども歴史的社会的所産であるから、まず一般論として企業と経営者の社会的責任が問われるのは当然である。かつて、日本においても企業の社会的責任論が盛んにとなえられた時期があった。大原総一郎を代表とする再分配論であり、木川田一隆をはじめとする公共性論であった。しかし今日のCSR論は、これら一般的な性格の議論とはまったく相違するのだ。 CSRは責任論一般と同様、倫理を土台とするものであるが、環境問題を経た今日、それは反略奪・反窃盗をコアとするものとなった。略奪・窃盗に対する責任の追及は個別的、個人的、具体的、累進的な性格を持っている。ゆえに企業と経営TOPは、市民から実際の行為について、その社会にたいする負荷に応じて、一社一社、一人一人が謝罪と賠償と退場を迫られる。 もはや略奪・窃盗を文化とする企業の存続は許されない。今日数多く伝えられるすべての不祥事は、企業の持つ略奪・窃盗原理を源流にしている。それが環境破壊のみならず、社会に大きな悪影響を及ぼしている。企業は事業活動のなかに、少なくともそれがライフサイクルで与える環境負荷にみあった環境修復事業を織り込まなければならない。あらゆる事業活動の側面で、略奪・窃盗体質からの変身を証明しなければならない。このことができない企業は、市場から退場しなければならない。 わが国における「近代医学」の始祖、杉田玄白の遺した言葉に「天変人妖」というものがある。現代風に解釈すれば「自然環境の破壊は人間社会の崩壊を引き起こす」ということになろうか。「人工」の「環境問題」に直面する現代の立場からすれば、「人妖」が「天変」を引き起こし、かつ、「天変」が更なる「人妖」を惹起するということであろう。 ついでに、CSRが倫理の問題として、反略奪・反窃盗をコアとして論じられなければならないことへのフィードバックを考えれば、いまや、あまりにも解決への歩みがまどろっこしいがゆえに、環境問題は比較選択の課題から善悪の問題へと性質を替えたと言うべきである。 現在わが国においてかまびすしいCSR論議の多くは、本音を言えば、如何に世間の非難を回避するかに的を絞っているようだ。しかし、それこそ略奪者・窃盗者の論理ではないか。現在の社会はジュラシックパークのようなものであり、環境と市民の基本的権利を強大な恐竜のような大企業がおびやかしている。どうやって略奪経済からの脱出をはかり、略奪者・窃盗者がはばをきかす腐敗した社会を改革するのか。良心的な企業と市民の協力によって、市民の権利を主体とした自由で開放的な「市民資本主義」社会の形成を急がなければならない。(2004/5/31)